2011年12月27日火曜日

てんでんこ とは

「てんでんこ」
という言葉・概念に
何度も驚いてしまう
これまで
みんなが揃ってから
避難する事をイメージしてきた
だが津波に関しては
究極のリアルではなかった


『――前略――死者・行方不明者が1200人以上に上った釜石市では、全小中学生約2900人のうち、地震があった3月11日に早退や病欠をした5人の死亡が確認された。しかし、それ以外の児童・生徒については、ほぼ全員の無事が確認された。市は2005年から専門家を招いて子供たちへの防災教育に力を入れており、その一つが「てんでんこ」だった。度々津波に襲われた苦い歴史から生まれた言葉で、「津波の時は親子であっても構うな。一人ひとりがてんでばらばらになっても早く高台へ行け」という意味を持つ。――後略――』(3月28日読売新聞)

釜石市北部の大槌湾を望む釜石東中学校(生徒数222人)は、
同湾に流れ出る鵜住居(うのすまい)川から数十メートルしか離れていない。11日午後の地震発生時は、各教室で下校前のホームルームが行われていた。立っていられないほどの横揺れが生徒たちを襲った。
1階にいた3年生の栗沢正太君(15)は避難口を確保しようと、とっさに窓を開け、机の下へ。揺れが一段落すると、担任教師が「逃げろ」と叫び、栗沢君が校庭に出ると、2、3階にいた1、2年生も非常階段を下りてきた。
校庭に出た生徒たちは教師の指示を待たず、高台に向かって走りだした。途中、同校に隣接した鵜住居小学校(児童数361人)の児童も合流。小学生の手を引く中学生の姿も目立ったという。
子供たちは普段の防災訓練で使っている高台に集まろうとしたが、だれかが「まだ危ない」と言いだし、さらに高い場所にある老人施設まで移動。学校から1キロも走っていた。
教師たちが点呼を取ったところ、登校していた両校の児童生徒計562人全員の無事が確認できた。
その5分後、両校の校舎は津波にのみ込まれた。
(北海道新聞より一部抜粋)


2011年12月25日日曜日

東北自動車道 往復1300キロ,宮城、岩手へ、そして

福島は行ってみたが
何だかまだよくわからない
そして
やっぱり
宮城、岩手を訪れなきゃと決心した

それは確かに少し遠すぎる。
往復1300キロの運転、
けど
知り合いが行き
詳細にそのことを知らせてくれた
やっぱ、行ける!

距離は前回の倍近く
時間は片道7時間運転
でも、休みがとれたし、
高速は無料化だ
行こう


仙台、陸前高田、気仙沼
ニュースに何度も出た町
どんなとこだか
見当もつかない
でも
行ってみよう









高速を降りて、仙台の町へ向かう
とりあえず着いたのが仙台港
北海道苫小牧へフェリーが出ている町
吉田拓郎の”落葉”に出てくる町
車を走らせ様子をうかがうと被害は各所に残っているけど
すごいパワーのある街で、
着実に本来の仕事を取り戻している


東を目指す
道の途中
松原の風景に出会う
本当に素敵な風景だ
驚いてしまう、こんな複雑な地形は関東にはない



観光地も復活している
人も沢山いた。
被災地の悲しさはここには無い


でも、東へ進むと
この町が見えてきた
石巻である


町がすべて飲み込まれていた
家屋が流され
それが撤去され
地盤沈下によって池のような土地が広がっていた



自然の災害に心まで押し流されたくない
そんな、意思表示のオブジェに初めて出会えた
誰もが立ち止まってみていたし
誰もが心を温められていた



絆という文字が
こんなに生きる町はない


道をさらに走ると
左手に小学校が見えてくる
門脇小学校


校舎が焼けはててしまっている
津波の中で漏れ出た
油に引火して全焼してしまったらしい




一階の職員室は炎から間逃れ
物が散乱し、当時のままである
記録として残しているのだろうか

これだけの被害をうけた小学校であったにもかかわらず
児童は裏山に避難し
全員無事であったそうだ


高台の
日和山公園から町を見渡す
町の東側は全て津波で持っていかれている



翌日、
向かったのは陸前高田市
勿論ここも被害が大きい
町に近づくと山間から朝市やプレハブの数々
後でわかったことだが
もとの町並みは
復興中でユンボやトラックだらけ
人が活動できる場所はない


多くのお店はこのようなコンテナハウスを活用して
営まれていた

凄いユンボの一群
しかし、土地が広すぎて、
撤去物が多すぎて
まだまだ時間がかかる

見えてきたのはテレビでも有名になった一本松
しかし、海岸線に近すぎて
復興の作業が進められ
近づくことはできなかった
もうすぐこの木もなくなってしまうのだろう


最後に訪れたのは
気仙沼
海の中にガードレール
地盤沈下だ
凄い風景がここにもある
でも
気仙沼の町は山間部にも広がり、
被害を受けたのは全部ではなかった
昼食にお寿司をいただけたほどの町


これもすごい風景だった
船が道路の横にたたずんでいる
これは将来どうなるのだろう
動かすことが本当にできるのだろうか

この旅を通して
最後に
どうしても語らなければならないのは
初日の最後に訪れた
大川小学校のことだろう

死者・行方不明者74名
現在裁判中であり
この場で多くを語れるテーマではないが
間違いなく言えることは
津波が来ると思っていた人と来ないと思っていた人がいて混乱したこと
この学校が町の津波想定外地域であったこと
だが、屋根までの高い津波が来たこと
そして、多くの死者・行方不明者の出たことである

私が到着した日暮れ時
クリスマスイブの夜でもあり、
悲しみをこらえ
人々が集まっていた
そんな中
自分の目で確かめたく
本当に裏山に登ることはできたかできなかったかと
懐中電灯で足下を照らし
うろうろしてみた
でも、やはりよくわからなかった

そして、感じたことは
本当に危険だと思っている所からよりも
危ないか、危なくないか
灰色でよくわからない部分の中に
本当に怖い危険が潜んでいる、ということだ

その危険を避けるのは
マニュアルでもなく
一歩でも高いところへ逃げろ
自分の命は自分で守れという
「津波てんでんこ」の話だった

世間一般に津波と言われ
東北地方と言われ
そういうものだと
納得してテレビで報道を見て理解してきた

しかし、現地へ行ってみると
状況はあまりにも複雑だった

例えば、下の地図の女川を走っているときが一番ビックリした
津波に対して背を向け、
しかも湾になっている
沢田は走っていて被害が少ないことが伺えた
それに反して
女川町は太平洋に口をぱっくり開け
津波がのど元まで届いていた
断崖絶壁の
がけの上の家まで
津波で持っていかれ
町全体が無くなっていた































そんな細かなことまで
ニュースは伝えない

ニュースは全体を伝えるだけで
生きること、
感じることは全体でなく
個の問題だ

一人一人がしっかり
「津軽てんでこ」でなくっちゃいけない
古い言い伝え通り
「津波がきたら
各自がてんでんばらばらに
一人で高い所に逃げろ!」

よし!
わかった
旅は終わりだ
でも、絶対また訪れよう
どんな町に生まれ変わっているか
ちゃんと見届けよう
これからを









2011年12月18日日曜日

年末のお買い物

年末になるとなぜだか買い物に行がしたくなる
何故だろう?

今年はこのご時世に
燃費最悪の10年越しのドイツ車を
乗り継ぐことにしたし
島のセルフビルドの増築は
もう、いい加減にせいやと
説教されたわけではないが
控えることにし
結構地道に生活してきた

震災の影響か
山にはよく行ったけど
楽しむものは
数千円の山セットとか
リサイクルショップでの
古着通いだったなあ~

こういう時は
その反動が怖い

と言うわけか、否かわわからないけど
反動買いの
買い物三昧

一番高いのは
カーナビだけど
これは話題としては面白くないので却下

買い物で楽しかったのは
最近通っている歯医者の近くに陶器屋があって
そこの親父の解説があまりにうますぎて
ついついその話に乗せられ買ってしまう
最後に買ったのはみそ汁茶碗は
一つ3500円もした工芸品並みの一品
こいつは凄い!
繊細で良くできている

もう一品の思い出に残る買い物は
パソコンのキーボード
普通2000円も出せば買える品だが
8000円もしたメカニカルキーボード!
他のゴムペコペコのキーボーなんかじゃなく
昔のようにバネを利用してキーが落ちるようになっていてカチカチして
超気持ちが良い
文章をうっていて
リズミカルに続けることができる

なんだか、どれも地味だけど
気持ちいいものだから満足

そう言えばここ数ヶ月家飲みが増えたなあ~
だって自分家で作ったった方が旨いし、旨い酒も探してこれるし・・・
でも、自分ちで二日酔いになるのはやっぱみっともないなあ、、、



2011年12月3日土曜日

GO! FUKUSHIMA

前日、飲み過ぎて寝たのは日付が変わってから
朝、起きたのは8時過ぎになった
本当に行けるのだろうか?
と思いながら朝食をとる
また、後で知ったことだけど、
寝てたけど
それなりに大きな地震があったらし
何かを暗示しているような
遅めの出発、9時だった

今回、被災地視察にどうしても行きたかったのは
復興補正予算のニュースを見てからだった

いったい今、現地はどうなっているんだろうか
ニュースで被災地見学ツアーのことなどが伝えられ
そろそろ行っても良いかなと思った

でも、ネットで調べてみると
まだまだ復興作業の邪魔で迷惑だという意見もある
よし、行くけどさっと見るだけにしよう

常磐自動車道路で北へ向かう
外は強い雨
車がだんだん少なくなっていく
今月から被災地の高速無料が始まった土曜なのに


 いわきを過ぎてから高速は1車線になる
そしてすれ違う車はほとんどなくなる

視察の初めの目的は
危機をもたらした福島第一原発にできるだけ近づいてみること
その周りの人達の生活はどうなっているのか


























掲示板に南相馬の地名が出てくる
これ以上近づいて大丈夫?!
ちょっと緊張しながら車を走らせる
昨夜の酒のせいか頭も痛い

道の掲示板に通行止めの表示が
いよいよここまで



特殊車両が増えてくる
この辺を巡回している模様

やべ!
引き返さなきゃ
















緊張が最高に高まった先には
白い放射能防護服を着た警備の警察の皆様!
ギー
(>_<)

この場面
写真などとても撮れずに
退散!退散!

(-_-)ふー

大体今朝、炉心のメルトダウンがセメントを溶かして
あと数十㎝だった話をテレビを見ての出発だっただけに、、、


警戒区域近くの道を南下する
人がいない
もの悲しさが感じられる
強い雨が降っていたこともあるが
見かけるのはお年寄りだけ


さあ、次は
津波の爪痕は残っているだろうか
県道を走る限り
もう、災害の様子がわかる風景はない


新舞子という場所で
ルートを変え
海沿いに走る
やはりあった
災害の残骸や傷跡だ

家の基礎だけが残る
ここに住んでいた人々はどうなっているんだろうか





しかし、こういった基礎のみが残る部分は
一部であって
小名浜の通りから見る限り
わからないくらい平常の生活だった

ただ、あまり元気の出る旅ではない
海に出てみた




ここにも残骸が

休憩で寝ようと駐車場を探して
たまたま入った空間に
水族館があった
よし、はいろう!

アクアマリン 福島
ずいぶん立派な施設だ



















中にはいると
魚たちが一杯
これは楽しい
同時にうれしかったのは
子供がいっぱいいたこと
原発の近くでは
子供に会うことがない
ここには
普通の生活がある
若者がいて
子供がいて
老人もいる





こんなタワーが
水族館についていた
登ってみる


福島のいわきは元気だ!

一人ひとりの生活は
そう簡単ではなく
大変だろうけど
街としては写真の通りだった

夕方になって
帰ろうと決心する
二日酔いも
やっと抜けて元気が出てきた
雨も上がった
がんばれ福島!